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Vol.8 銀座千疋屋 齋藤充さん

Vol.8 銀座千疋屋 齋藤充さん 毎回ご好評をいただいています「リレーインタビュー」ですが、今回は「銀座千疋屋」の齋藤充さんです。前回ご登場した「銀座鹿乃子」の小川さんのご紹介ということもあり、齋藤さんもまだ40代ですが、若い行動力と感性を持ちながらも、伝統を守る姿勢を兼ね備えた素晴らしいお人柄でした。
「銀座千疋屋」といえば、最高級のフルーツのイメージが真っ先に思い浮かびます。厳選された素材へのこだわりや、フルーツパーラーの由来など、じっくりと伺いました。
では、リレーインタビューの第8回、どうぞお楽しみ下さい。

 

1. 果物は宝石?
2. 「いいものを高く買って高く売る」
3. 伝統を抱えて再スタート

 


 
1.果物は宝石? 

グルたま(インタビュー担当スタッフ:以下同): 今日はよろしくお願いいたします。「銀座千疋屋」さんというと‘フルーツパーラーの起源’とか、‘フルーツポンチの生みの親’とか、興味は尽きませんが、その歴史あたりからお伺いしたいのですが。
齋藤(敬称略:以下同):うちの創業は1894年(明治27年)になります。当時は店の軒先に棚を作って果物を陳列する、八百屋さん的な形態だったと聞いています。その後、私の祖父が(二代目になりますが)、何と言いましょうか、果物を心から愛していた人であり、進取の精神にも富んだ人柄だったのでしょうね。常に世界に目を向けている人で、建築やデザインにも造形が深く、銀座通りにまだ「大八車」の通っていた時代に、店舗の造作を改良し、店の入り口に扉をつけてしまったんです。

 

グルたま:センスのいい方だったのですね。
齋藤:そうですね、値札もほとんど縦書き漢数字の時代に、横書きにして、果物をひとつひとつ箱に入れ、まるで宝石を売るようなイメージで、果物を陳列したのです。

 

グルたま:まさに、当時のことを思い描いてみれば、果物は宝石!ですね。最初は、果物屋さん、小売店から始められた「銀座千疋屋」さんが、いわゆるフルーツパーラーの発祥といわれるようになった由縁を教えていただけますか。
齋藤:そもそも、8丁目のちょうど今の博品館の並びにお店があった頃のことです。外国人居留地が近かったせいで、多分アメリカ人でしょうか、リンゴを買ってはその場で丸かじりする光景が、よく見られたそうです。これは彼らには当たり前だったのでしょうが、立って食べる事を気の毒に思ったうちの店員が、店先にテーブルと椅子を置いたのが始まりのようです。その後、住居にしていた店の2階の畳を板張りにして、喫茶ルームにしたそうです。

 

グルたま:それがフルーツパーラーの始まりなのですね!
齋藤:そういうことになります。ちょうど1913年(大正2年)の頃と聞いています。はじめは「果物食堂」という名前でやっていたそうですがしっくりいかず、「談話室」とか「応接間」といった意味のパーラーという単語をフルーツの後に付けて、「フルーツパーラー」にしようと。ただなじみのない言葉なので、はじめは果物食堂との併記で使用していたそうです。
グルたま:今ではフルーツパーラーといえば、誰でも分かる名称ですが、命名された先々代の先見の明は素晴らしいですね!

 

 2.「いいものを高く買って高く売る」
グルたま:銀座で飲食店をなさっている方にインタビューしますと、必ず“素材”の仕入れの話題になりますが、こちらではいかがでしょう。
齋藤:また祖父の話で恐縮ですが、祖父は根っからの果物好きでしたから、いろいろ研究をしていたようです。仕入れ先ルートもたくさん持っていて、戦後の、果物がなくなりかけた危機の際も、自分で仕入れた果物を他の店に供給し、商品がなくならないように奔走したそうです。これがきっかけで、祖父は「果物組合」を作ったそうです。
自分さえよければという考えより、果物を広めたいという気持ちが強かったんでしょう。 

グルたま:やはり、より良い果物を捜し求めたり、見識を深めるために、世界中回られたとか…。
齋藤:世界までは聞いていませんが、果物の研究をしたり、その原木を探して、日本中をまわったそうです。それを趣味の水彩画にしていたようです、本も残っていますよ。

 

グルたま:果物にすべてを懸けていたのが、本当に身にしみて分かるような気がします。
齋藤:祖父の残した言葉の中に、「いいものを高く買って高く売る」というのがあります。この仕組みで、生産者は本当にやる気を出し、すごいものが出来てきた、と聞いています。また銀座というところは、そんな事をちゃんと受け入れてくれる街だったのでしょう。

 

グルたま:生産者と販売者の心が通じ合っている、そして本物の良さが分かるお客様がいる、いいコミュニケーションができていたんですね。
齋藤:昔はそれらの農家と直接契約を結んでいたようです。ただ、現在では、一部を残して農家との直接契約はありません。その代わり信頼のおける仲買を通して市場から仕入れますが、仲買のみではなく、うちのバイヤーの目利きも要求されています。生産者の顔が直接見える訳ではありませんが、産地、生産履歴、果物の顔や形から、その果物の表情を見極める確かな目が一番大事ですね。

 

 

 
3.伝統を抱えて再スタート
銀座千疋屋のフルーツポンチ グルたま:ところで、齋藤さんが引き継いでからは、どんな経営をされているのですか?特に大きく変えたようなことはありますか?
齋藤:この5丁目(晴海通り沿い)の店舗は、1947年(昭和22年)に出来ました。バブルの頃は従業員100人以上、支店も5カ所に持っていましたが、現在は効率化を進めているところです。のれんを守るために経営的に身軽になって、一から始める、今がそのスタートと考えています。
 

グルたま:先ほど「のれんを守る」という言葉が出ましたが、具体的に継承していきたい伝統は?
齋藤:ひと言で言うと、フルーツに対する愛情でしょう。うちのフルーツポンチはシンプルだと思います。最近は、芸術的なパフェなどが出回っていますが・・・。祖父の教えの一つに「果物には刃物を多く入れるべきでない」というのがあります。加工すれば食べやすくなりますが、必要以上にはそれをしない、私は、祖父の果物に対する愛情の表われと考えています。

 

グルたま:レシピを拝見すると、シロップはブランデーや赤ワインなども入っていて、複雑で凝っているようですが、見た目はシンプルできれいですね。
齋藤:これがレトロな感じで、意外と受けています。このネーミングはカクテルの“パンチ”から持ってきたと聞いています。果物を使ったおしゃれな飲み物にしようという発想だったのでしょう。

 

グルたま:そういえばサントリーさんとタイアップした飲み物も出ましたね。
齋藤:そうですね。基本的には彼らが試作をしてきて、そのたびにこちらは果物の専門家としていろいろ意見を言わせていただいて作りました。

 

グルたま:これからもいろいろチャレンジの計画をお持ちですか?
齋藤:「銀座千疋屋」としてもいろいろ考えていきたいと思っています。
ところで、これは個人的な事ですが、去年「東京マラソン」にチャレンジしました。

 

グルたま:えぇ~!すごいですね。
齋藤:当日は、ご存じの通りの悪天候で大変でした。スタートも、雨宿りしていた参加者が一斉にぞろぞろ出てきて、人混みがめちゃくちゃでしたね。

 

グルたま:それは大変でしたね。テレビで様子を見ましたが、スタート地点は、まともに走れる状況ではなかったようですね。2008年も2月17日に開催されるそうですが、出場されるんですか?
齋藤:残念ながら抽選で落ちました~。
(実はこの後マラソン談義が続き、予定を30分もオーバー…。マラソンを始めたきっかけや、走っているコースなどのお話を伺いました。熱く語る齋藤さんにチャレンジ精神の片鱗を拝見しました。)

 

グルたま:齋藤さん、今回はどうもありがとうございました。今度頑張っておいしいメロン買いに来ますね!

 

 

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